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大いなる危機としてのオリンピック

以下の文章は、6月24日のスタンディング行動に寄せられたメッセージです。タイトルは編集部がつけました。

阿部潔 (関西学院大学教員)

みなさん、こんばんは。今夜、「オリンピック災害おことわり連絡会」のスタンディングに、関西から電話で参加させていただく阿部潔と申します。どうか、よろしくお願いします。

今回、こうした貴重な機会を与えていただいたのは、4月末に出版社コモンズから刊行した『東京オリンピックの社会学──危機と祝祭の2020JAPAN』に関心をもっていただけたからかと思います。運動の現場、東京のストリートで、日々活動しておられる方々からお声がけいただいたことを、心より光栄に感じております。ありがとうございます。
この本では、2013年の招致決定以来、さまざまな「とんでもないこと」が東京オリンピックをめぐり生じてきたのに、結局のところ、ふと気づけば開催イヤー2020年を迎えていた。どうしてこんな「とんでもないこと」がこれまでまかり通ってきたのか。そのことは現代日本社会に見て取れるある種の「症候」、つまり、より根深い政治・社会的な病理の表れではないか。そうした視点から、東京オリンピックを分析しました。サブタイトルの「危機と祝祭」に込めた意味は、オリンピックという世界的なスポーツの祝祭が東京/日本にやってくるはずだったのが、今回のコロナウイルス騒動という危機によって残念なことに延期されてしまったということでは全然なく、むしろ逆に、多くの人が素朴に期待を込めて楽しみにしていた東京オリンピックというものの正体は、実は大いなる危機そのものにほかならない。そんな問いかけをしたくて、この本を書きました。

では、どうして東京オリンピックは危機なのか? 実はそれは、これまで私たち自身が目にしてきたことを思い起こせば、自ずと明らかです。新国立競技場問題、エンブレム盗作疑惑、招致活動での贈賄捜査、マラソン・競歩会場の札幌への突然の変更、などなど・・・・。そしてオリンピックイヤーを迎えた今年はじめ、コロナウイルス感染が各国に広がり予定通りの開催を危ぶむ声が世界中から湧き上がったにもかかわらず、最後の最後まで安倍首相、小池東京都知事、森組織員会会長ら東京オリンピック推進者たちは、7月に予定通り東京オリンピックを「完全なかたちで開催」することに頑なに固執しつづけました。ところが、3月になると態度を一変。結局、IOCバッハ会長と共謀のうえ、「新型コロナウイルスに打ち勝った証として」の東京大会を「一年延期」して開催することが決められた、という顛末です。

少し冷静に振り返れば、東京オリンピックをめぐる一連の出来事は、本当にもう「どうかしている」としか形容のしようがない。それぼどまでにおかしなことの連続でした。そして、多くの国民/都民は、それを知らないのではなくて、むしろ案外よく知っている。それなのに、いまだ東京大会の即刻中止・返上が世論として盛り上がってこない。ここにこそ、先に指摘したいま現在〈わたしたち〉が生きるこの社会の根深い病の「症候」が見て取れるのではないでしょうか。
拙書のなかでも分析しましたが、ここには人々のあいだに広く分かち持たれた独特の心性=メタリティが見て取れます。それを一言で言えば、どこかしらシニカルな態度と同居する「希望があることへの希望」ではないでしょうか。
多くの方に納得いただけるかと思いますが、2020年の東京オリンピック開催が決定してから、前回64年東京大会の成功物語が、メデイアなどで繰り返し取り上げられてきました。高度成長真っ只中の昭和39年に開催された東京大会が「輝かしい過去の栄光」として、きわてめノスタルジックに思い返される理由の一つは、今を生きる私たちの目には、当時の日本社会が希望に溢れていたように映るからです。つまり、敗戦から20年あまりしか経過していなかったにもかかわらず、日本経済は飛躍的な復興と発展を遂げ、当時の社会で来るべき未来はまさに輝いていた。そうした懐かしい「過去の日本」に想いを馳せつつ、他方で、今では失われてしまった「輝かしい日本」をもう一度をなんとか取り戻したい。別の言葉でいえば、21世紀を迎えて以降、「失われた20年」と言われてきた停滞の時代から、なんとかして抜け出して、かってのような「輝ける未来」に向けた希望を、もう一度実感したい。そうした「希望があること」に対する人々の切なる想い、つまり「希望への希望」とでも言うべきセンチメントとメンタリティが、さまざまな問題やスキャンダルにまみれていることを知っていながらも、それでもなおどこかしら東京オリンピックに期待を抱こうとする〈わたしたち〉の姿に見て取れるのではないか。そんな分析を本では試みました。

ですが、本書を描く終えて私自身がたどり着いた結論と立場を言えば、そうした「希望への希望」は現実世界の厳しさを直視することなく、いたずらに過去の栄光や日々メディアで繰り返される「日本人の凄さ」にすがるかぎりにおいて、現在直面している喫緊の問題を解決することには、なんら結びつかないと思います。むしろ、民族主義的でナショナリスティックなノスタルジーやナルシシズムといつまでも戯れているのではなく、〈わたしたち〉を取り巻く厳しい世界の情勢を冷静に見極めていくことこそが、一見遠回りのように見えても、実は未来に向けた希望を手に入れるうえでより確実な方法ではないでしようか。

その意味で、今回コロナウイルスの影響でオリンピックが「延期」となったことはひとつのチャンスだと思います。つまり、新型ウイルスという未曾有の危機に直面することで、人々が楽しみにしていたオリンピックという祝祭が、実は別なる危機であることが垣間見えた。そうだとすれば、これからの〈わたしたち〉がなすべきことは、いつまでもそうした金と権力にまみれた偽りの祝祭に期待を寄せるのではなく、今回のコロナ危機の中で懸命に生き延びようとしている人々のあいだに生まれつつある「連帯」に根ざした、その意味で困難の只中をサバイブするなかから生まれる希望にしっかりと根ざしたかたちで、来るべき未来と真の祝祭への想像力を育むことだと思います。これまでネオリベラリズムが喧伝してきたような、自己選択と自己責任だけをいたずらに強調し、他者を蹴落とす生き残りゲームへと駆り立てられるサバイバルではなく、だれもそこから逃れられない危機のもとで、それぞれが互いをリスペクトしつつ、たとえ微力であったとしても相互に支え合うなかで果たされる〈みんなの/みんなでサバイバル〉。そうした新たな希望の予兆を、今夜のスタンディングに集ったみなさん方はきっと、それぞれの仕方で感じておられることと思います。
あらためて言う必要もありませんが、一年後に延期された東京オリンピックはそうした希望の機会には断じてなりえません。なぜならば、これまで私たちが目にしてきたような数々の「どうかしている」有様こそが東京オリンピックの本来の姿であり、そこでは強い者たち/恵まれた立場の人々の恥知らずの自己利害だけが思い求められてきたからです。安倍首相たちがこの期に及んで恥ずかしげもなく口にする「新型コロナウイルスに打ち勝った証として」の東京大会開催というスローガンなどは、なんの根拠にも根ざさない妄言にすぎない。小池都知事が唱える「簡素化した」オリンピックの開催も、根本は同じです。オリンピック・ビジネスへの義理立てをなんとしても果たそうとする魂胆が見え見えの「簡素化」に、意味があるとは到底思えません。前回の都知事選で「オリンピック会場費用の根本的な見直し」を掲げて当選を果たしておきながら、実質的な成果をなんら残していない現職知事が今更どの面下げて「簡素化」などと言えるのか。良識ある多くの都民の方々には、およそ理解しがたいことでしょう。

みなさん、もうこんな出来の悪いホラーのような東京オリンピックという祝祭には、一刻も早く「即刻中止」との引導を渡しましょう。そのことは、もっとも直接に「オリンピック災害」を被る都民のみなさんや、「復興オリンピック」の名の下で更なる苦難を強いられてきた東北地方の被災者の方々だけでなく、この社会に生きるわたしたちひとりひとりの切なる思いであり、また果たすべき責務だと思います。きっと、そのようにして東京オリンピック反対・中止の声を上げていくことを通して、コロナ禍のもとで必死に生き延びようとしている「まつろわぬ者」たちの連帯が力強く生み出されていくに違いありません。

東京から遠く離れたここ関西の地で、非力ながら私はこれからも声を上げ続けていきたく思います。
今日は、拙い話に耳を傾けていただき、本当にありがどうございました。
もう決してオリンピックというホラーがやって来ることのない東京で、みなさんとお会いできる日を楽しみにています。