本山央子さん(アジア女性資料センター)ジェンダー・セクシュアリティ

2022/10/10 五輪集会スピーチ

オリンピックが掲げるジェンダー平等や性的マイノリティの包摂という理念が、いかに大きな矛盾をはらんでいるか、わたしたちは東京五輪への抵抗運動を通じて、すでに十分すぎるほど学んできた。クーベルタンの時代から、オリンピックが女性の身体を男性より劣ったものと位置付けてきたこと、ジェンダー平等を掲げるようになってからも、男女の身体は明らかに異なったものというまなざしの下で、選手の身体をコントロールしてきたことも、わたしたちはすでに知っている。

スポットライトのあたる競技場に女性やマイノリティの身体も取り入れてみせることで、オリンピックは、自らを利益追求産業ではなく、女性やマイノリティのエンパワーメントを推進する公益運動であるかのように見せかけてきた。そして日本のような国家も、「スポーツは本質的に社会によいものだ」という神話を利用して、スポーツ・ナショナリズムと大規模開発を正当化してきた。

東京五輪を通して、このまやかしは無残なほどに明らかになった。森発言に見られるように、むしろ異論を唱える存在を女性化して黙らせる家父長制権力こそが五輪の推進力なのだ。だから森発言をきっかけにジェンダー平等を推進しますという約束がごまかしにすぎないことは最初からはっきりしていた。実際、組織委の総括文書を見れば、多様性と包摂がただの掛け声で終わったことは明らかだ。しかし今日は、こうした五輪の総括よりも、むしろ五輪はまだ終わってはいないのではないかということを考えてみたい。

スポーツへの平等な参加によって解放とエンパワーメントがもたらされると女性やマイノリティに約束するオリンピックの言説は、市場への参加が解放をもたらすという資本主義の約束と、非常によく似通った構造をもっている。たしかに市場に参加する扉はすべての人に開かれているかもしれない。しかし、わたしたちの異なる身体は、資本がそこから最大の利益を引き出しうるように、ジェンダーやセクシュアリティ、年齢、障害、人種によって配置されている。

五輪において、選手たちの身体は大きな価値を生み出す商品とされる。だが、そうではないわたしたちの身体もまた、資本の流れを促進するように配置されるし、もしも邪魔になる場合には、積極的に排除されることさえあるのだ。

東京五輪は、力強く美しい身体のパフォーマンスによってではなく、その裏で、死と病に苦しむ多くの身体を出現させたことによって、長くわたしたちの記憶の中に刻まれるだろう。短期間のスポーツイベントのために多くの資源が動員されるとき、価値を生み出さない身体は、より少ない資源とより多くの無償労働によって、自助努力で生き延びることを余儀なくされる。その負担が、ケアの担い手とみなされる女性に多くのしかかることは明らかだ。そして自助による生存が困難となれば、社会的に廃棄されることも正当化されていくことになるだろう。

政府は今、高齢者医療費や介護保険の自己負担を大幅に引き上げようとしている。さらに高額医療費の自己負担制度の撤廃も議論されている。こうした制度へのアクセスがなければ、尊厳ある死すら保証されなくなることになる。わたしたちはコロナとオリンピック下で起きていた非常事態を、ニューノーマルとして受け入れるように促されている。その意味で、オリンピックはまだ終わっていない。どうすれば終わらせられるのかを考えるためにも、東京五輪という出来事の意味をくりかえし考え続けることが必要なのだ。